歴史

室町時代の中頃、近江国栗太郡四図郷に目川城という砦がありました。


目川城主芝原右京亮太郎重綱は、応仁・文明の大乱において京都で参陣、戦場に没しました。重綱には三人の男児があり、その第三男を芝原又四郎重清といいました。


重清は、武門に生まれながらも、若年のころより道心篤く、出家してはじめは金勝寺の衆徒となり十輪坊に住しましたが、その後、本願寺第八代宗主蓮如上人の教化に深く感銘し、上砥山に一宇の草案を建てて浄土真宗の道場とし、玄意と名乗りました。これが勝専寺初代住職です。


大永2年(1522)11月24日、玄意61歳の時、本願寺第九代宗主実如上人より方便法身尊像(ご本尊)をたまわり、草案に安置しました。これが「砥山道場」と呼ばれるもので、このときを勝専寺の開基(創設)とします。玄意は、天文13年(1544)に83歳で示寂しました。


その後、慶応12年(1607)、第三代住職のときに、本願寺第十二代准如上人から「勝専寺」という寺号と木造本尊(現在の勝専寺本堂のご本尊)をたまわり、このときから「勝専寺」と称するようになって今日に至っています。

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